匈牙利(ハンガリー)と匈奴
匈奴の名は、戦国時代の各国が、匈奴を引きこんで強国の秦を攻撃したとき登場します。
匈奴の旬の字は胸に通じますが、凶に通じるとする説もあり、はっきりとは分かっていません。
紀元5世紀、東ヨーロッパの地に消えたフン族を匈奴の子孫とする考えから、現在の中国語ではハンガリーを匈牙利と表記します。
匈奴の奴は奴隷と関係があり、秦から漢にかけて、多数の奴隷が万里の長城を越えて匈奴の地に逃れたことの反映という説が有力です。
匈奴自身は、自分たちのことを胡と称していましたが、胡はのちに西域の人を指すようになり、さらには外国人の総称にもなりました。
春秋時代、黄河中流域の諸国は諸夏(しょか)、としての共通意識をもつようになりました。夏の流れをつぐ者という意味です。
そして周辺の異民族を夷狄(いてき)と呼びました。
夏と夷のちがいは、飲食、服飾、風俗、習慣、言語のちがいであって、楚(そ)、秦、燕(えん)なども夷狄としてあつかわれました。
戦国時代になって近くの夷狭が吸収され、諸国の統合がすすむと、諸国の支配者層に、残された夷狄を獣(けもの)のようにみる差別意識が定着します。
戦争による捕虜が増え、人を人として見ない奴隷制の拡大がその背景にあると考えられていて、匈奴の奴もこれと関連があるみたいです。
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