Chinese history 知っておきたい中国の歴史

中華人民共和国

1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門で中華人民共和国の樹立を宣言した。
国民党軍は台湾に逃れ、台湾国民政府は今日まで存続している。
国土は戦乱で荒廃しきっており、中国共産党は国家の再建に取り組まなければならなかった。
だが、士地改革、国有化、大規模な建設プロジェクトなどの実施、中華人民共和国憲法の制定、人民の動員などを通じて、1950年代には明るいきざしが見えてきた。
朝鮮戦争(1950~1953)中は、中国でも民族主義が高揚し、緊張感が高まった。
工業面では、ソ連の5力年計画がモデルとされ、農村では人民公社が中心となって農業の集団化が進められた。

百花斉放運動から文化大革命へ

中国共産党による支配に自信を深めた毛沢東は、古代の百家争鳴にならって、知識人たちが自由に党を批判できる状況をつくろうとして、1957年、百花斉放政策を打ち出した。
ところが共産党や社会主義に対する予想外に激しい批判が噴出したため、毛沢東は一転して反右派闘争を開始し、知識人は社会主義の敵であるとした。
その結果、自説を撤回したうえに職を追われる知識人が続出し、中には強制収容所に送られる人もいた。
かつて専制政治の打倒を目指した中国の共産主義が、専制政治そのものに堕してしまった。
1950年代末には、イデオロギー上の純粋さ本求めるあまり、社会がよりいっそう急進化した。
毛沢東はソ連のモデルを離れて白力更生路線に転じ、1958年に社会主義建設運動が開始された。
だが、労働力を大量に投入すれば生産力は飛躍的に向上するという経済理想主義がうまくいくはずもなく、大躍進は失敗に終わる。
その結果、党内に対立が生まれ、国家にも破滅的な影響が及んだ。
現実を無視した生産活動は農村を疲弊させ、ひどい経済格差と大飢饉が発生した。

 

1960年代には、社会主義革命をめぐって中ソが対立し、いわゆる中ソ論争が始まる(ソ連は中国への援助を打ち切った)。
毛沢東がフルシチョフ首相率いるソ連を修正主義と批判する一方、ソ連は中国を教条主義と非難した。
国境紛争が頻発し、中ソ全面戦争の可能性も取りざたされ、各地に防空壕がつくられた。
大躍進の失敗後、中国では資本主義的なメカ二ズムを導入して経済を立て直そうとする動きがあったが、毛沢東はプロレタリア文化大革命(1966〜1976)を号令し、資木主義の芽を摘みにかかる。
文芸作品への思想闘争に端を発した文革の火の手は、やがて中国社会全土にまで及び、権力闘争へと発展した。
その目的は、伝統的なもの、非社会主義的なものを破壊することだった。
毛沢東思想に心酔する学生の組織、紅衛兵が資本主義的な風潮に対する激しい批判を展開し、多くの知識人が農場へ送られ、強制労働をさせられた。

 

仏教、道教、儒教の寺院が破壊され、僧たちは毛沢東思想を学ばされた。
とくにチベットの寺院が甚大な被害を受けた
毛沢東は信仰の対象となり、毛沢東語録が若者のバイブルとなった。
一方、劉少奇とケ小平は資本主義の復活をはかる「走資派」とされ、劉少奇は湖南省で幽閉中に没したといわれている。
ケ小平はのちに復活し、中国の指導者となる。
現在の中国では、文革は重大な誤りであったとして否定されている。
1970年代半ばから、中国は文革のあと始末に着手、それに先立って、周恩来首相の尽力により、1971年、中国は台湾政権に代わって国連での代表権を獲得した。
だが共産党内では、改革派と保守派との溝が深まり、毛沢東とその後継者の林彪が激しく対立していた。
林彪は毛沢東の暗殺に失敗し、飛行機でソ連へ逃亡する途中、墜落死する。
また周恩来の前には、文革路線の継続を主張する江青(毛沢東夫人)ら、四人組がたちはだかった(のちに江青は獄中で自殺する)。
1976年、人民に慕われていた周恩来が死去すると、その死を悼む人々が大挙して天安門広場に集まってきた。
しかし市民が捧げた花輪を公安当局が撤去したことから暴動に発展した。
当局はこれを反革命事件とみなし、暴動に参加した市民たちを断罪した。
これが第1次天安門事件である。
市民の間では、文革が最高潮に達したことに対する絶望と怒りが渦巻いた。
ケ小平はこの事件の首謀者とされ、再び失脚する。
1976年9月、毛沢東が死去。その霊は、天安門広場に造営された巨大な霊廟にいまも眠る。

 

 

毛沢東の死後、文革は四人組の責任とされ、ケ小平らが復権を果たす。
華国鋒が一時的に国家主席を務めたのち、ケ小平がついに中国の指導者となり、中国の近代化に乗り出した。
1980年代には、深?、珠海、汕頭、海南島、深?、珠海、汕頭、海南、厦門が経済特区に指定された。
中国共産党は、社会主義の目標を掲げつつ、経済の市場化を目指す「社会主義市場経済路線」に転じ、中国経済は、毛沢東の時代には想像もできなかったほどの発展を遂げる。
1984年には、中英共同声明により、1997年に香港が中国に返還されることが発表され、ポルトガルも、1999年にマカオを返還することに同意した。

天安門事件

中国では、経済の自由化に見合うだけの政治改革が実行されなかったため、共産党内には腐敗がはびこっていた。
また、インフレの進行が市民生活を圧迫するという状況もあった。
こうして1980年代末、市民の不満がいっきに爆発する。
1989年、改革派だった胡耀邦の死を悼むかたちで天安門広場に集まった群衆が、民主化運動を開始する。
だが、6月3日、学生指導者に率いられて座り込みを続ける市民たちに向かって人民解放軍が発砲し、犠牲者の数は数千人ともいわれている流血の惨事となった。
学生に同情的だった越紫陽首相は解任され、中国は香港市民だけでなく世界中から非難を浴びた。

 

1990年代
1992年、郡小平は広東省の深?、珠海を視察し、南巡講話を発表して経済特区の成功をたたえ、資本主義路線の拡大に歩み出した。
「ネズミを捕まえさえすれば、ネコが黒だろうと白だろうとかまわない」というケ小平の言葉は有名だ。
しかし、国有企業改革、不良債権の処理、金融機構改革など、経済上の課題が多い中、1997年、ケ小平は香港返還を待つことなくこの世を去る。
国際社会の注目が集まるなか、後継者には江沢民が選出された。
また、顔の見えない高級官僚が多いなかで異彩を放つ朱銘其が、李鵬の後を継いで首相に就任した。
中国政府首脳にとって、不振をきわめる国有企業の改革と失業問題の解決が目下の最重要課題となった。

 

江沢民はケ小平の経済改革路線を踏襲したが、外交的には強硬な姿勢を崩していない。
ひとつの中国を目指して台湾に圧力をかける一方、台湾、フィリピン、べトナム、マレーシア、ブルネイと、スプラトリー諸島(中国名は南沙諸島)の領有をめぐって争っている。
ねらいは、豊富な埋蔵量が見込まれる海底油田だ。