Chinese history 知っておきたい中国の歴史

1626年、陜西を大飢饉が襲い、大規模な農民暴動が発生した。
一方、この頃、かつこ金を建国した女真族の末裔、満州人が北辺を脅かしていた。
満州人は明の混乱に乗じて新たな国を建国し、1644年に明が滅びると北京に入り、その後40年かけて明の残存勢力を中国から一掃する。
満州人の統一に成功したヌルハチは、八旗とよばれる8個の軍団を組織し、1616年、中国の東北地方に後金を建国した。
その後1636年に、第2代皇帝の大宗が国号を清と改める。
清朝でも軍事・行政組織として八旗制が維持されたが、漢民族をなだめるため、明朝の官吏の多くが留任を認められた。
ただし、官職のトップは満州人が占めた。

 

漢民族の成人男性は、満州人への従属の証しとして弁髪(頭の周辺部の髪を剃り、中央の髪を編んで後ろに長くたらしたス夕イル)を強制され、満州人の男性は漢民族の女性との結婚を禁じられた。
また中国の女子には、纏足(てんそく)といって、足指を布で縛って発育を妨げ、小さな靴をはく習慣があったが、満州人の女子は決してこの風習を真似しなかったが、満州人はしだいに中国化していった。

 

清朝の初期は国威が盛んで、康熙帝、雍正帝、乾隆帝といった名君が続いた。
康熙帝(在位1661〜1722)の治世には、ロシアとネルチンスク条約を結んで国境を画定し、清の版図は外モンゴル、チべット、ネパール、中央アジアの大半を含む広大なものとなった。
また康熙帝は、イ工ズス会の宣教師を重用し、数学や天文学をはじめとする科学を講義させるなど、学問を奨励した。
雍正帝(在位1723〜1735)と乾隆帝(在位1736〜1795)の時代には、工業と商業が発展するとともに、両帝のひ護のもと、芸術と科学が奨励された。
さらに、税制改革と治水工事が行なわれたため、農民が反乱を起こさなくなったことも特筆に価する。
しかし、中央アジアと中国南西部でのたび重なる軍事行動が原因で、しだいに清は衰退していく。

西洋の列強による包囲

19世紀、中国にとって最大の危機が訪れる。
イギリス、フランス、ドイツなど、進んだ科学技術をもつ西洋の国々が、豊かな富に恵まれながら国力の振るわない中国に目を付けたのだ。
西洋の列強は中国との通商を求めるとともに、中国での拠点づくりを急いだ。

 

18世紀末、イギリスの外交官マカート二一は、乾隆帝に謁見して貿易の拡大を求めたが、はねつけられた。
19世紀に入ってからも、清朝側が外国の使節に対して三跪九叩頭の礼(皇帝に対面する際、3回ひざまずき、その度に頭を地に3回つけ、合計9回頭を下げる礼)を求めるなど、高圧的な態度を取り続けたため、ついに戦争が起こる。
その結果、清は戦いに敗れ、屈辱的な条約を結ばされることになった。

 

第1次アへン戦争(1840〜42)後、イギリスと清の間に南京条約が締結され、香港がイギリスに割譲された。
さらに第2次アへン戦争後にも、清は列強との間に相次いで不平等条約を結ばされ、租借地という名目でイギリス、日本、フランス、ロシアに清の領土が割譲された。
清は、近代的な兵器を備えた列強を前にしてなすすべがなかった。
清も軍隊と政府の近代化を進めておけば状況は変わったかもしれないが、保守的な宮廷がそれを許さなかったのだ。
清の宮廷は西洋の国々を恐れながらも、軽侮しているとろがあったため、問題はこじれる一方だった。

 

19世紀の中国では、困窮した農民による反乱でまたしても国が割れる。
1850年から1864年まで続いた太平天国の乱では、反乱軍が多くの都市を陥落させ、おびただしい数の死者が出た。
さらに、太平天国の乱に続いて、長江(揚子江)流域で捻軍の反乱(1853〜1868)が起こり、中国北西部でもイスラム教徒の反乱(1862〜1873)が発生した。

清の滅亡

西太后(1835〜1908)が実権を握った時代も、清朝の衰退には歯止めがかからなかった。
もともと皇帝の后だった西太后は、つめを異常に長く伸ばし、慈悲の女神を装うことを好んだが、その実は無能な独裁者にすぎなかった。
甥の光緒帝を立てたものの、名のみの皇帝であり、裏では西太后自らが政権を把握していた。

 

日清戦争(1894〜95)で日本に敗れたのち、清は列強の侵略の的となったが、そうしたなかで、変法自強と呼ばれる改革運動(1695〜98)がわき起こった。
だが、議会政治を基盤とする立憲君主制の樹立を日指したこの運動は、守旧派の反撃を受けて失敗に終わり、改革を支持した光緒帝は西太后によって幽閉された。
1900年、山東で蜂起した義和団が宣戦を布告したが、8力国共同出兵により鎮圧されてしまう。
もともと民衆の反帝国主義闘争として起こった反乱だったが、清朝宮廷の保守派が義和団を利用したため、結果的に、これが旧体制最後の抵抗となった。
1908年、光緒帝と西太后が前後して亡くなり、わずか2歳の溥儀(ふぎ)が即位するが、1911年の辛亥革命で清が滅亡したため、溥儀はラストエンペラーとなる。