スポンサードリンク
天台宗の名刹が続く大原
山々に囲まれた大原の真ん中を、若狭街道が走っている。かつては京へ一塩した鯖などを運んだ「鯖街道」のひとつである。
街道の西には、建礼門院が隠棲(いんせつ)した寂光院(じゃっこういん)の詫びた佇いが見られ、名物紫葉漬の紫蘇畑や、水田の間には、茅葺屋根の民家が点在している。
東には、比叡山の山懐にかけて大原の魚山流声明を伝える、三千院、勝林院、宝泉院、実光院、来迎院と天台宗の古寺が続き、朗々とした声明が、一帯から聞こえてきそうである。
また、「ろれつが回らない」という言葉の由来ともなったといわれる、呂川と律川の清冽な流れが、寺々の間を流れる。
京都旅行:大原の観光
京都・大原
今日宿泊する旅荘・茶谷に車を置かせてもらい大原を観光散策しに行く。
最初に行く予定の三千院へと向かう。
比叡山の麓とあってのどかな里景色が出迎えてくれる。透明度の高い吹く風のすがすがしさに気分爽快。高野川を渡り大原バス停に出る。
バス停の前の道路を渡り三千院の案内板通りに歩いていく。三千院へは呂川に沿って坂を上がる。和紙のもとしろをはじめ、しば漬けや民芸品の店が読く。
帰りに漬物屋さんで売っている名物のキュウリを食べることにしている。
三千院に続く道沿いには大原女達が大原を訪れる人たちを出迎えていてくれる。
観光客達に対するおもてなしなのか、また、道もきれいにしておりゴミなど落ちていない。こういう場所や気遣いは気持ちが和みますネ。
さらに呂川沿いを進むと三院の交差点に着くと三千院の豪壮な石垣が見える。
城かと見紛うばかりの堂々たる構えを見せる三千院。苔むした石垣と白壁は100mを超えるという。
三千院
三千院の前の道を北へ突き当たりヽ左へ回り込むと宝泉院。
拝観料には抹茶接待が含まれているので、書院から有名な額縁庭園を愛でながら一服できる。今日はライトアップを観に来る予定。
宝泉院の東側には、法然上人の大原問答の舞台である勝林院が立つ。
参道途中にある漬物屋さんで売っているアイスきゅうりを食べる。
国道367号のバス停大原まで戻り、続いて道なりに西へ向かう。一面紫色の紫蘇畑がぽつぽつと見え隠れする。
東海自然歩道を歩いて行くと、寂光院への道案内が辻々に立っている。
寂光院
寂光院を出て緩やかな下り坂を進んでいくと今日宿泊する民宿へつながる脇道がる。田んぼのあぜ道風の細いみちに情緒を感じながら歩く。カーブを曲がれば旅荘茶谷が見えてきた。
宝泉院 ライトアップ
「額縁の庭園」で知られる宝泉院
20時、夕食後に暗い夜道の中、宝生院のライトアップを観に行く。
山門を入ると、近江富士(三上山)を型どった樹齢700年を超える五葉の松が出迎えてくれる。
宝泉院は、実光院とともに勝林院の塔頭のひとつとして、天台声明の研鑽(けんさん)が続けられている道場である。中心をなす書院は1502年(文亀(ぶんき)2)の再建。
廊下は、正伝寺、源光庵(げんこうあん)などと同じく、伏見城の遺構を利用しており、関ヶ原の戦いの発端となった伏見城の攻防戦の際、徳川方の鳥居元忠と家臣たちが自刃した血痕が残る天井に覆われている。いわゆる「血天井」を見るの忘れた。
夜9時頃になると参道も人気がなくなりひっそりとしている。街灯も少ないので懐中電灯が必要だったが、なかなか楽しい散歩の時間だった。
京都・大原の観光ガイドメモ
京都大原:地名の由来
「原」は何もない平地を指しており、当地が比叡山系の西麓に広がる谷間の平地であることを意味している。
古くは小原(おはら)、のちに大原とも呼ばれるようになった。
比叡山延暦寺に連なる著名な天台寺院が多く、また、古来から薪や柴、炭などの産地で、これらを京都市中まで売り歩いた。
筒袖の着物、脚絆(きゃはん)姿の大原女(おおはらめ)の存在も、かつては有名であった。
三千院
延暦年間(782〜806)最澄(ざいちょう)が比叡山に根本中堂を創建したとき、東塔の南谷の梨の木の下に一宇を構えたことが始まりという。
そ860年(貞観(じょうがん)2)に承(じょううん)が東坂本の梶井(かじい)に円融房(えんゆうぼう)を営んだが、1130年(大治5)、堀河天皇の皇子、最雲法親王が梶井十四世となるにおよんで梶井宮と称し、門跡寺院となった。
そのとき、大原の寺々を管轄することとなり、来迎院中心の上の院と、勝林院中心の下の院を管理する政所がおかれた。
その後、坂本から京都の船岡山山麓などに移転したが明治維新を迎え、大原の政所を梶井門跡の本殿と定め、このとき、寺号も三千院となった。
境内の老杉に囲まれた極楽往生院は平安時代の寛和2(986)年、恵心僧都の建立と伝え、阿弥陀如来座像と観音・勢至菩薩座像を安置する。
庭園は聚碧園と有清園の二つの池泉回遊式庭園の他、奥の院には紫陽花苑もあり、四季を通じてしっとりとした美しさを見せている。
宝泉院
改めて竹の美しさを知る額縁庭図
勝林院住職の坊として平安時代末期に建てられたといわれる寺院。
伏見城遺構を使った血天井、一枚の絵画のように観賞する「額縁庭園」と「鶴亀庭園」。
客殿から見る庭「盤桓園(ばんかんえん)」は、手前に刈り込み、奥に竹林を配し、その合間から大原の山々が望める。
清爽の雰囲気に加えて、客殿の柱と鴨居が織り成す調和美は「額縁の庭園」と称される。
新緑、紅葉ともに比類のない美しさを見せるが、厳冬期の雪景色も格別である。また、庭園には、二連式の水琴窟(すいきんくつ)があり、夏季には涼味を高めてくれる。
近江富士をかたどった樹齢600年の五葉松など見どころが多い。
勝林院を本堂とする僧院で天台声勝明の研鑽の場として知られる。
池泉観賞武庭園の契心園と池泉回遊式の開放的な旧理覚院庭園の二つの名庭があり、縁側にを下ろして、抹茶をいただきながら観賞できる。
来迎院(らいごういん)
魚山流声明が響きわたった幽邃の地。
聖応大師良忍が天仁2(1109)年に建立した天台宗の古刹。
勝林院とあわせて大原寺(だいげんじ)と総称し、勝林院と並ぶ天台声明の修練道場として発展した。
勝林院
大原問答の舞台となった寺
寂源が長和2(1013)年に創建した天台宗延暦寺の別院。
天台声明の道場として発展したが、顕真が法然を招いて浄土念仏について議論した「大原問答」の寺として有名。本尊前には問答台が残っている。
寂光院(じやっこういん)
建礼門院が余生を送った泉台宗の名刹
台宗延暦寺に属する尼寺。
わが子安徳天皇と平家一門の人々を壇ノ浦の戦いで失った。高倉天皇妃、平清天盛の娘、建礼門院徳子が尼僧となり余生を送った寺として有名。
境内には高倉・安徳両天皇像、女院の自作像、その侍女阿波内侍の像など『平家物語』ゆかりのものが多い。
「平家物語」の最後を締めくくる「灌頂(かんじょう)の巻」には、「西の山のふもとに一宇の御堂あり。即ち寂光院これなり」と記されている。
寂光院は、正式には清香山王泉寺(せいこうざんぎょくせん)という天台宗の寺。
寺伝によれば594年(推古2)、聖徳太子が父の用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝える。
本尊は太子作とされる地蔵菩薩立像(重文)であるが、2000年(平成12)の火災で損傷したため、現在は収蔵庫に保管し、2005年に再興された新しい本堂には、新造の本尊が安置されている。
音無の滝(おとなしのたき
「源氏物語」の舞白にもなった滝
来迎院からさらに山奥に入った所に来ある滝。
名の由来は、滝壷に落下する水音が山肌に吸収されるからとも、良忍上人が呪文によって滝音を消したからともいわれている。
西行法師が歌に詠んで以来、悲恋の涙にたとえられる。