魏晋南北朝時代
後漢の瓦解は、中央集権国家の終焉を意味した。
後漢の滅亡(220)から隋の統一まで約360年間を「魏晋南北朝の時代」と呼でいます。中国では群雄が覇を争う戦乱の時代が続いた。
魏、蜀、呉という三つの国が誕生する。いわゆる三国時代(220〜265)の始まりである。
明代に刊行された歴史小説『三国志演義』では、この時代の英雄豪傑の活躍が描かれているが、実際には血なまぐさい時代だった。
三つの国のそれぞれが漢王朝の正統を名乗り、天下統一を目指した。
263年、蜀は魏に滅ぼされ、その直後に建国された晋が魏と呉を滅ぼして、三国時代は終わる。
こうして中国は一時的に再統一されるが、まもなく「匂奴」をはじめとする遊牧民族の攻撃を受け、またしても分裂する。
晋は中国北部の支配権を失い、都を現在の南京に移して東晋を建設した。
このため民族の大移動が起こり、江南の開発が進んだ。
5世紀にはトルコ系の遊牧民族といわれる鮮卑が中国北部を手中に収め、北魏(386〜534)を建国するとともに、中国の習慣を積極的に採り入れた(後にモンゴル民族と満州民族も同じく中国同化政策をとった)。
こうし中国は、北魏から始まる北朝と、東晋に端を発する南朝に分裂する。
中国北部を統一した北魏も、世の乱れから東魏(534〜550)のと西魏(535〜557)に分裂し、さらに支配層である鮮卑が力を失ったため、その後も北斉(550〜577)、北周(556〜581)と、次々に王朝が交代した。
南部でも、君主権が弱かったため豪族どうしの争いが絶えず、東晋以降、宋、斉、梁、陳の4王朝が興っては消えていった。
仏教の興隆
南北朝時代は国が二つに分裂する混沌とした時代だったが、意外にも混乱のなかで豊かな文化が育まれた。
道教が盛んになり、竹林の七賢とよばれる清談家たちが老荘思想を語り、酒を飲み、詩作にふけった。
一方、仏教も、仏教美術とともに花開いた。
この時代の菩薩像や仏像の顔は、見る者を魅了する超越性と神々しさをたたえている。
現存する石窟寺院としては、敦煌、雲崗、竜門が名高い。
老荘思想に通じていた陶淵明は、『帰去来辞』を書いて官職を退き、自適の生活を送った田園詩人。