帝国主義勢力を中国から追い払おうとした義和団事件と、政治改革を目指した1898年の変法運動は、どちらも失敗に終わったが、中国の国内では革命への気運が確実に高まりつつあった。
改革の指導者のひとりが、中国革命の父とよばれる孫文(1866〜1925)。
孫文は、革命の基本理念として、民族の独立、民権の伸張、民生の安定の3つからなる三民主義を唱えた。
1911年の辛亥革命で清朝が滅びると、孫文は、資金調達に奔走していたアメリカのデンバーから急きょ帰国し、中華民国臨時大総統に選出される。
だが、1898年の改革運動をたきつけておきながら、後で裏切った袁世凱が、まもなく孫文に代わって臨時大総統に就任した。
袁世凱は1915年に帝政宣言を発して自ら皇帝になろうとしたが、翌1916年に死去し、中国は再び各地に軍閥が割拠する分裂状態となった。
孫文も広州軍政府を樹立したが、1949年に共産党政権が成立するまで、中国では変転が続いた。
共産党の誕生
国内の混乱が続くなか、共和主義者たちは孫文を中心に、その後も共和制の実現に向けて奔走した。
孫文が組織した中華革命党は1919年に中国国民党と名を変え、1925年に孫文が亡くなると、代わって蒋介石(1688〜1975)が指導者となった。
国民党は、中国北部の軍閥を滅ぼし、国民党のもとで中国を統一することを目指した。
だが、この頃、国民党が標傍する共和主義のほかに、もうひとつの政治思想が中国に芽生えていた。
1921年、上海で中国共産党が結成されたのだ。
1923年、ソビ工トの仲介で、共産党は国民党と協力することを決めた(第1次国共合作)が、蒋介石は、独自に資本主義国家を樹立しようと考え、共産党勢力の排斥に転じる。
蒋介石は1926年に北伐を行なって、北方の諸軍閥を打倒したが、そのとき上海を根拠地とする浙江(せつこう)財閥に財政支援を仰いだ。
そのため、1927年に上海で労働者や共産主義者が蜂起すると、蒋介石は浙江財閥の求めに応じて上海クーデターを起こし、反乱に徹底的な弾圧を加えた。
反乱鎮定後、蒋介石は南京国民政府を樹立し、帝国主義列強の支持を受けた。
一方、毛沢東、朱徳らに率いられた共産主義者たちは、江西省と湖南省の山間部に引きこもった。
毛沢東は、中国共産党の主流だった都市労働者を中心とする革命をあきらめ、農村と農民に依拠する革命を目指す道を選んだ。
長征・抗日戦
長征
蒋介石が共産主義者に向ける憎しみは、軍閥に対する憎しみよりも激しかった。
毛沢東らが率いる紅軍は、国民党軍の包囲攻撃から逃れて「人民闘争」の新たな拠点を求めるため、1934年10月、たてこもっていた江西省瑞金を発し、最終的に陜西省の延安まで移動した。
11の省を通る過酷な行軍は長征と呼ばれ、全行程9650qに及んだ。
出発時には10万人を数えた人員が、戦死する者、病死する者、あるいは脱走者が続出し、到着時には1万人に減った。
長征の途上、貴州省の遵義で開かれた拡大政治局会議で、毛沢東が中国共産党の指導権を獲得した。
後に中国共産党の実力者となる朱徳、周恩来、林彪、劉少奇、ケ小平らは、いずれも長征の経験者。
抗日戦
中国の分裂に乗じて、1931年、日本は満州を占領して満州国を建国。
日本は新京(長春)を満州国の首都に定めるとともに、清朝最後の皇帝溥儀を帝位に就け、これを傀儡(かいらい)とした。
だが、第2次国共合作が正式に成立する直前の1937年9月、日本軍は中国に侵攻し、
北部と東部の大半を征圧した。
上海も陥落し、南京では多くの市民が虐殺された(南京虐殺事件)。
国民党軍は西に逃れ、一時期、武漢に拠ったのち、四川省へ向かい、重慶政府を樹立した。
共産党は着実に力をつけつつあったが、第2次国共合作によって成立した抗日民族統一戦線が有効に機能しなかったことは、中国にとっての悲劇であった。
第2次国共合作が瓦解したのち、日本の真珠湾攻撃を機にアメリカが参戦すると、国民党軍はアメリカと手を結んだ。
だが、アメリカが国民党軍に武器と軍資金を提供したにもかかわらす、国民党内部が腐敗していき士気は上がらなかった。
1945年、広島と長崎に原爆が投下され、日本が連合軍に対して無条件降伏すると、国民党軍と共産党軍は再び各地で激突し、中国は再び内乱状態となる。
共産党軍(1947年に人民解放軍と改称)は人心を掌握して優勢に戦いを進め、国民党軍の武器(ほとんどがアメり力から供与されたもの)を奪って兵力面でも優位に立ち、1949年末に中国全土を解放した。